17世紀後半以降の近世になると畿内近国の町人たちによる参詣記が見られ、小辺路の詳しい様子を知ることができるようになる。また、東国からの参詣者たちも伊勢・熊野への参詣の後、高野山や畿内へ向かう短絡経路として小辺路をしばしば通行した[47]。小辺路の要所に設けられた宿屋・茶店、道標といった交通遺跡が設けられたのも近世のことであり[48]、重要な交通路であったことがわかる[30]。
河内国丹北郡向井村(大阪府松原市)の庄屋で談林派の俳人でもあった寺内安林[49]は『熊野案内記』[50](以下、『案内記』)と題する紀行文を残している。安林は天和2年(1682年)、友人3、4人とともに高野山から小辺路を経て熊野三山に参詣し、那智からは大辺路経由で西国三十三箇所の札所(紀三井寺から葛井寺まで)を巡拝して帰郷している。『案内記』は俳句や狂歌、挿絵を交えた案内記となっている。松尾芭蕉の門人である河合曾良は元禄4年(1691年)の3月から7月下旬まで4ヶ月近くにわたって近畿各地を巡遊した際に、小辺路を通行して高野山から本宮へ参詣を果たしている。曾良の旅行記『近畿巡遊日記』によれば4月9日に高野山に上り、大又(大股)・長井(永井)に宿をとり、翌々日の4月11日には本宮に到達している[51]。
18世紀以降には、大坂高麗橋付近に住む氏名不詳の商人による元文3年(1738年)の『熊野めぐり』[52](以下、『めぐり』と略記)、伊丹の酒造家、八尾八佐衛門の家人[53]による延享4年(1747年)の『三熊野参詣道中日記』[54](以下、『道中日記』と略記)などが見られる。『めぐり』の商人たちは5月14日に大坂を出立し、高野山から小辺路をへて熊野に入り、本宮・新宮・那智を巡拝し、中辺路を通って大坂へ帰着している。『めぐり』の著者は道中の風物について詳しく行き届いた記述を残しており、沿道の事物の有り様をあざやかに浮かび上がらせている[55]。『道中日記』の著者は3月29日に友人2人、駕籠屋2人の一行で伊丹を発ち、『めぐり』と同じルートをたどっている。4月3日に高野山に着き、4日後の7日に本宮、次いで新宮・那智に立ち寄った後、11日に再び本宮、13日に紀伊田辺、19日に伊丹へ戻っている。『道中日記』は、「内容豊富で、異色に富み、とくに民俗関係資料に見るべきものが少なくない」[53]点で際立ったもので、その人類学的な視線の向けようが興味深い[56]。
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東国からの参詣者による参詣記の例として、会津南山保上小屋(福島県南会津郡舘岩村)の木地屋、大和屋一行による『伊勢参宮道中記』がある[57]。大和屋一行は嘉永3年(1850年)正月に会津を発ち[58]、伊勢参宮を経て2月9日に新宮に着いて熊野速玉大社に参詣し、翌10日には熊野那智大社へ参詣してすぐに大雲取越えを越えて小口に宿をとり、11日に本宮に着いている。翌日に熊野本宮大社に参詣したのち果無峠を越え、矢倉・大股に宿をとって、14日の午前中に高野山に着いている[59]。
東国からの参詣者はその言葉遣いや服装に特色があることから、熊野を含む紀南地方では「関東ベエ」「奥州ベエ」と呼ばれた[60]。彼らのほとんどにとっては一生に一度の旅であり、大坂・京都・奈良などを訪ねて各地の名所旧蹟を巡るため、しばしば小辺路を北上して旅程の短縮を図ったのである[47]。関東ベエ・奥州ベエたちは、秋の収穫を済ませてから旅立ったため小辺路を通行する頃にはすっかり厳冬期にはいっており、しばしば「雪が三尺も積もった峠を平気で越えて、萱小屋や大股や水ヶ峯の宿屋に泊まった」[61]。また、大和屋の参詣記に、新宮・那智で牛王宝印を授かり、本宮で熊野講もちをついた[59]とあるように、こうした参詣風俗も関東ベエ・奥州ベエに特徴的なものだった[62]。彼らは牛王宝印を「御札もじばん」と呼び、護符として珍重したため、熊野参詣の際には欠かせないものであった[63]。熊野講もちとは宿や宿坊で樫杵を使って数人でもちをつく習俗をいい、関東ベエ・奥州ベエが故郷で組織していた熊野講の習慣が持ち込まれたものであると考えられている[64]。
幕末から近代 [編集]
幕末期の動乱の中、尊皇攘夷派の一党、天誅組が決起(文久3年〈1863年〉)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して五條に結集するが、情勢の急変により郷士たちは離脱・帰村、天誅組も東吉野村で壊滅する。その後、若干の分派が十津川村をたよって小辺路を敗走した[65]。
1889年(明治22年)8月の大水害により十津川村は甚大な打撃を受けた。この際、災害の中心地であった十津川本流沿いの幹線道路(今日の国道168号に相当する)の崩壊が著しかったため、当時五條市にあった郡役所への急報が小辺路伝いに届けられた[66]だけでなく、救援ルートとしても用いられた[67]。水害により生活基盤が損なわれたため、住人の一部は再建を断念して北海道に入植した(のちの新十津川町)[68]。その際、入植者たちは、小辺路を経て高野山から神戸へ向かい、北海道へ海路をたどった[69]。
明治維新以降の近代に入ってからは熊野詣の風習も殆どなくなってしまったため、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として昭和初期までは使用されつづけた[70]。
小辺路沿道の吉野の山村では物資移送をもっぱら人力に頼っていたが、明治中期以降は馬を使うようになった。野迫川村では集落ごとに2、3頭の馬を飼うようになり、高野山との間で往来があった。高野山からは米、塩、醤油、味噌、酒、魚、その他日用雑貨品が、山中からは木炭、木材、箸、経木、楮、割菜、高野豆腐がもたらされた[70]。また、紀和国境の果無峠は、前述の通り、龍神・熊野・高野および大峯の各地を結ぶ交通路として利用され続けていた